薬物とアルコールの併用により生じる前向性健忘の神経化学的研究

清水 恵子(旭川医科大学医学部法医学講座/助手)

背景・目的
 ベンゾジアゼピン系薬物(以下BDZと略)は、抗不安薬・睡眠薬・抗けいれん薬として広く臨床に用いられている中枢神経作用薬であるが、特にアルコールとの併用によって、前向性健忘が高頻度に生じることが報告されている。これらの薬物が関与した犯罪も生じ、法廷で問題とされた場合もある。また、高齢化社会を迎え、高齢者のQOLの向上のために、前向性健忘を含めた老人性痴呆への取り組みが重要となっている。しかし、記憶形成に関与するシナプス間隙におけるグルタミン酸伝達に関する知見はほとんど見あたらない。本研究では、BDZとアルコールによって誘発される前向性健忘機構を、行動薬理学的・神経化学的に検討し、特に健忘発生におけるグルタミン酸伝達の役割について考察した。
内容・方法
 8週令雄性Wistarラットを使用し、実験群は、コントロール群、エタノール2g/kg投与群、トリアゾラム100μg/kg投与群、トリアゾラム20μg/kg投与群、トリアゾラム20μg/kg+エタノール2g/kg併用投与群、リルマザフォン20μg/kg投与群の6群である。
 モーリス水迷路試験:薬物投与による空間認知記憶障害の程度を水迷路試験を用いて行動薬理学的に評価を行った。装置は直径147cm、深さ30cmの水を張った円形の水槽に、水面下に2cm水没する直径12cmの透明なプラットフォームをある一定の位置に設定したものである。潜時として、入水からプラットフォーム到達までの時間を測定した。ラットはプラットフォームを視覚的にはとらえることはできないため、周囲の景観からプラットフォームの位置を認知・記憶する。この試行を1日2回、4日間連続で行い、記憶の固定を評価した。
 ブレインマイクロダイアリシス:薬物性健忘に関与する神経化学的機構を解明するために、海馬外側部及び小脳におけるin vivo Glu放出を測定した。ペントバルビタール麻酔下において、海馬と小脳に、ガイドカニューレを定位的に固定し、ダミープローブを挿入し20時間の回復期を与えた。その後、微小透析膜を挿入し、無麻酔・無拘束下、リンゲル液 を潅流し、潅流液を20分毎に回収した。実験終了後、麻酔下ラットの脳を10%ホルマリンで潅流し、透析膜の位置を確認した。
 Glu分析:プレラベル誘導化法により、HPLC/蛍光分析を行った。
結果・成果
 モーリス水迷路試験:水迷路試験試行第1回目における各実験群の潜時は、ほぼ等しい値であった。コントロール群では、連続4日間の試行によって潜時は試行初日の15%程度に短縮された。しかし、薬物投与群では潜時の改善はコントロール群に比べて低いものであった。この潜時改善度から見た薬物の学習認知記憶障害効果は、リルマザフォン投与群以外、統計的に有意差が認められた。特に、エタノールとトリアゾラム(20μg/kg)の併用と、トリアゾラム(100μg/kg)は、強力に空間認知記憶障害を誘発した。
 ブレインマイクロダイアリシス:各実験群間において、細胞外液中のGluの平均基礎濃度にはほとんど差が認められなかった。リルマザフォン20μg/kg投与群では、ほとんど細胞外Gluレベルは減少しなかったが、トリアゾラム20μg/kg及び100μg/kg投与群では細胞外濃度がそれぞれ、基礎値の80%と65%にまで減少した。エタノール2g/kg投与群でも、80%に減少した。トリアゾラム20μg/kgとエタノール2g/kgの併用投与群においては、基礎値の60%に減少した。一方、併用群も含めてどの薬物投与群においても、小脳での細胞外Gluレベルは統計的に有意な減少は認められなかった。
 空間認知記憶障害とGlu伝達との関連:空間認知記憶障害とGlu放出抑制との関連を検討した。その結果、海馬Glu放出の減少と空間認知記憶障害の程度との間に極めて強い相関関係が認められた(相関係数0.990)。一方、小脳Gluレベルと空間認知記憶障害の間には相関関係は認められなかった。
 本研究で得られた薬物による空間認知記憶障害の程度は、臨床的知見と良く一致している。水迷路試験によって認められた障害は、運動障害による可能性も考えられたが、運動記憶を司る小脳におけるGluの放出抑制は小さく、空間認知障害との相関関係も認められなかった。また、水迷路試験の結果はBDZによる水泳力の低下や水の中からの逃避意欲の喪失によるものでないことはすでに明らかにされている。BDZ及びアルコールは、GABA/BDZ受容体-クロライドチャンネル複合体(GABAA受容体)に作用する。BDZ及びアルコールによる空間認知記憶障害の発生機構には次の2つの可能性が考えられる。@海馬に投射しているGlu神経上に位置するGABAA受容体刺激によって、Glu神経の活動が低下し神経終末からのGlu放出を抑制する。この結果、海馬錐体細胞のAMPA受容体が活性化されず、定常状態ではMg2+によってブロックされているNMDA受容体作動性Ca2+チャンネルからのCa2+の流入が阻止され、記憶の固定が阻害されると考えられる。A海馬錐体細胞においてNMDA受容体近傍に存在するGABAA受容体刺激を介して、直接に神経の脱分極を抑制することによってCa2+の流入を阻害し記憶の固定を障害する。しかし、空間認知記憶障害とGlu伝達低下の極めて強い相関は、BDZとエタノールによる空間学習と記憶の障害が、シナプス前神経の抑制によるGlu伝達の低下に基づく可能性を強く示唆する。
今後の展望
 グルタミン酸作動性のシナプス前神経活動の低下が、学習・記憶形成過程の障害に深く関わっていることが示唆された。神経終末での神経化学的機構の解明は、前向性健忘に対する薬物治療に新たな戦略をもたらす可能性も期待される。BDZ拮抗薬が、高齢者においてグルタミン酸伝達を高め、健忘予防もしくは改善に作用する可能性が考えられる。文献的にはBDZのパーシャルアゴニストRO-153505が実験動物(高齢マウス)において記憶障害を改善したという報告がなされている。また一方、臨床においては高齢者に対するBDZ の処方は、きめ細かな配慮がなされるべきであることが、改めて認識されることであろう。